ひんこうほうせいとはいえず 

(´A)<すむーずに

NHK秋葉原の加藤の事件の周辺の人間の番組をしている。

当時東京に住んでいて、週4で秋葉原に行っていた俺には非常に衝撃的な事件だった。当然事件当日も現地にいた。やっぱりすごかったというか、否かでは考えられないほどの人間が街にいて、そこでパニックが起きることの恐怖が今でも覚えている。

現場から離れた位置にはいたんだけど、多くの人間が、一斉に行き場を失って混乱するということの恐怖。街中で殺人が起きるとこういうことが起きる。

死刑になるようだけど、あれだけ大きな町で、あれだけのことをやったら死刑になるのは当然だと思うけれど、当時は事件後に、彼の精神性を問うような、一人ぼっちの人間だから、もっと言えば無敵の人の犯行の始まりともいえる情報があふれ出た。

むずかしい背景や、家族の厳しい扱いがあったのも事実なんだけど、あの事件を見てしまったことで、そしてその後の報道や情報を見ると、無敵の人になることの恐怖と、社会から全く断絶されることの恐怖は植え付けられた。

人間が好きではないし、煩わしいと思うことばかりなんだけど、自分でそう選択したうえで、最後はひょっとしたら孤独に取りつかれて、無敵の人になるのではないか。理性的に孤独でいられることはいつまで可能なのか。

極端に言えば、ボケても最低限の付き合いで生きてゆけるのか。

春に東京に遊びに行った。当時の事件の面影は当然見えないし、どんどん再開発は進んでゆく。風景を止めず変えてゆくことは、ある意味で大都会の特権で、事件を知らない人たちに走らないまま進んでゆくし、事件でダメージを負った人たちの記憶をほじくり返さずに済む。

社会に生きる中で、正義感とか、そういう事を持って活きるなんてクソだと思っているし、仕事やいろいろな所属するコミューンの中で正義感を口にするなんて、いかれたやつがすることだと思っているけど、決して批判をしてはいけない。批判はあっという間に孤独を産む。

他人に嫌われないためは、リスクを負わないことが大事だし、美しく言えば、自分が愛されるためには他人を愛さなければならない。

難しいことなんだけど、先手を打って相手に慈愛を見せないといけない。

大体後手に回るとろくなことがない。でも、今の自分の居場所が、本来の居場所ではないと思ってしまうと、慈愛を見せるところではないと思ってしまう。

場所関係ないんだよな。自分が嫌われていても、決して本物ではなく、マナーレベルであってもこちらが先に差し出さないと、誰もこっちの孤独を解決してくれない。

ある意味社会の本質なのかもしれない。